蝉のぬけがら

なんとでもなるよ

ブレードランナーは救世主の夢を見るか?

2049年のLAは2019年のLAではない。

あの雨と煙の街、ネオンやホログラムの広告が輝いているが、それにはどこかむなしさを感じる。確かにそれはブレードランナーのロサンゼルスで、かつての多国籍な雑踏はあるが、どこか空疎だ。それはKが見ているロサンゼルスだからだろうか。それならば何故、どこにでも紛れ込めそうなのに、どこにもなじめない風に感じてしまうのだろう。

 

ブレードランナーをだいぶん昔に見て、久しぶりに見たら(ファイナルカット版)これは好きになるしかない、オールタイムベストな映画だ、と感じた。雨と煙の立ちこめる、夜の街に輝く広告や光る傘に、空を飛ぶ車。雨の中の涙。炎の上がる2019年のLAは、今となっては夢のある未来なのだ。希望の未来、新しい未来だった。それはもう2019年が来るといういまでも同じだ。2049年のLAは、それもやがて終わりへと向かっていくかのような感じだ。

見終わった後でさえ、ずっと心が2049年のLAに取り残されたままだ。特別な誰かになりたい、必要とされる誰かになって受け入れられたい、愛されたい。それは自然的な欲求だ。人はいつだって、特別な存在でいたいのだ。

joiやluvといった女性たち、記憶、記録、真実が自分にとって都合の良いものではないかも知れないと思いながら、それを信じたいと思う気持ち。これはハードボイルドな話でもあり、人とレプリカントを隔てるものが何か、人とは何かを発展させてきたものでもあり、誰かになるという話だ。Kは孤独だ。だから、彼は自分の居場所を探し求めてしまう。どこかにある、それを。だが、自分探しなんてしてもそこに自分がなければ、意味が無い。確かじゃないものにすがりたくなる。見えないもの、感情とか。人とレプリカントの違いが魂があるかどうかなんていう神秘で言うほど、境界が曖昧になっていく。それを隔てるのは、崩すのは誰なのか。自分であったらどれだけいいものか。

人よりも人らしく。人間らしさを求めたレプリカントはどんな夢を見ているのだろう。

彼が最後につかんだのは彼という人間の勝利なのではないのかな、と思った。

おそらく前作を見ていない人でも楽しめるし、その後で前作を見るのも良いかな、と思いました。

しかし、joi演じるアナ・デ・アルマスさんはかわいすぎますね。ずっとjoiのことを考えてしまう。